神明神社について

当社縁起維新の際散逸、草創は明らかではない。源平の頃義仲勧進する処なりと言ひ、義仲の時代を遡ると考へられる。大永6年遠山氏植苗木より今の苗木城を築き移転以前、飯田城主小笠原定基の領地。既に社殿あり、代官高柴伯耆守景長奉行再建とあり。当時は熊野神社と言われていた。遠山氏居城を苗木に築いてよりは、鎮守として尊崇し、湯立、流鏑馬の神事あり藩吏が監督をした。現在も9月17日に流鏑馬執行。湯立神事は明治に廃る。慶長15年城主遠山友政社殿建立し神田3反歩を献じ、延宝7年9月16日遠山和泉守友春神明鳥居奉建、享保8年9月9日城主遠山勝三郎藤原友将神明宮奉建造営、寛政5年5月吉日城主遠山左吉藤原友寿奉造営、文化8年9月吉祥日遠山刑部少輔藤原友寿春再営、文久2年6月遠山美濃守朝散大夫藤原友詳二之鳥居一宇奉再営。九代遠山友清が安永3年に太刀(備前長船住近影)を奉納、国の重要文化財。明治4年9月現在の御本殿拝殿に建直された。現在苗木地区は90%以上が神葬祭を行ひ、明治元年の神仏分離令のもと、仏教を廃止し神道のみ信仰されてきた歴史があるからである。この苗木藩の動きの背景には江戸期の國学がある。苗木藩士青山稲吉(通称青山景通)平田門人に入門し、爾来高弟となり、藩内多くの影響を与へた。稲吉が新政府に登用される(神祇官権判事)と、苗木藩の、各種改革を行ひ神仏判然を行った。苗木藩では、神葬祭願いが平田門人から出され(元年8月16日稲吉)明治3年には館内の士族平民に至るまでの伺書がだされ、神仏判然が藩を挙げてなされ、神明神社に祖霊社が建立されるに至った。

御 祭 神

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

事解男命(ことさかのおのみこと)

豊受毘売命(とようけひめのみこと)

伊邪那美命(いざなみのみこと)

菊理比売命(くくりひめのみこと)

大国主命(おおくにぬしのみこと)

速玉男命(はやたまおのみこと)

火産霊神(ひむすいのかみ)

少彦名命(すくなひこのみこと)

高産霊神(たかむすいのかみ)

宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)

誉田別命(ほむたわけのかみ)

天児屋根神(あめのこやねのかみ)

菅原神(すがわらのかみ)

八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)

忌部神(いんべのかみ)

大己貴神(おほなむちのかみ)

木花佐久弥姫神(このはなさくやひめのかみ)


平田篤胤大人(ひらたあつたねうし)

本居宣長大人(もとおりのりながうし)

荷田春満大人(かだのあずままろうし)

賀茂真渕大人(かものまぶちうし)

祖霊社 氏子の祖霊

招魂社 護国の英霊

金刀比羅神社  御祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)

文 化 財

●太刀 備前國長船住近景(国重要文化財)

   

備前国長船に在住していた近景の名が入っています。鎌倉時代の長船物の名工であった近景は三郎左右衛門尉と称し、近恒の子長光の弟子です。長船物の頭領は光忠であり、他に長光、景光、真長という名工も出ていて、古来、長船物は名将の佩刀とされています。

安永三甲午年(一七七四年)九月に苗木藩の従五位下出羽守藤原遠山友清第九藩主が当社に寄進した御神寶です。


●老杉 (中津川市文化財)

樹齢は判明しないが、寛文年間に落雷のため樹幹頂点から裂傷したといわれ、当時既に相当の老木であったと推定されます。その後も落雷があったが、今も枝が茂っています。



・その他 

 参道石畳 いろいろな模様が入っています